テント村通信アーカイブ



基地も原発もいらない!6月の闘い(2011年7月号掲載)



 6月11日は、脱原発100万人アクションの日として全国各地で集会やデモが繰り広げられた。全国では6万人を越える人々が参加し、そのまま地域では放射線量調査活動や学習会などが粘り強く今も続けられている。

 三多摩においては「たまウォークイン国立」がもっとも大きな行動として行われ、700名の市民が参加した。それに合流するように午前中は、国分寺や小平でもデモが行われている。反原発や反戦を取り巻く状況についての報告と今後の展望を述べよう。


シンポジウム そこで働いているのは誰か


   デモ以外にもさまざまな反原発行動が各地で行われた。6月4日には原発で働く人々の被曝労働を問題にしたシンポジウムが水道橋のYMCA会館で開催された。参加は200名以上。

 パネリストが樋口健二(写真家)/風間直樹(週刊『東洋経済』記者)/蓮池透(元東京電力社員、福島第一原発にて勤務/拉致被害者家族)の三人。コーディネーター(司会)としては河添誠(首都圏青年ユニオン書記長)という豪華な顔ぶれだった。

 樋口氏は自分の写真集のスライドを見せながら、ずっと前の70年代から日雇い労働者など臨時労働者を被曝させながら原発では使っていたことを解説。平常時でも格納容器などの内部や周辺では高い放射線が検出される。線量計を一応持つが鳴るたびに作業を中断したら仕事のノルマをこなせない。だから線量計を専門の人に預けて作業をする。安全基準そのものの意味がないのだ。GE(ゼネラルエレクトリック社)は定期検査の際には大量の黒人労働者に仕事をさせていたそうだ。

 風間氏は経済雑誌の記者だが、これらの下請け労働者に綿密な取材を行った。給料は1万円程度(日給)でさほど高くない。経験も資格も年齢も不問。危険な作業であることがよくわかる。これらの下請け労働者を集めるのに暴力団が絡むこともあるという。

 蓮池氏はかつてこの事故の起きた福島第一原発で長く勤務した。3、4号機の中性子などをはかる計測制御装置の保守管理を行っていたそうだ。当時原子炉の炉心損傷の起こる可能性は10のマイナス7乗か8乗と信じられていたそうだ。つまり100万年とか1000万年に一回程度しか起きないという確率だ。この見通しの甘さは痛感しているという。蓮池氏自身も90〜100ミリシーベルトくらいは被曝しているという。この事故が起きる以前から、廃棄物の最終処分はどうするのだろうか、という疑問はもっていたそうだ。ドイツのように徐々に原発を減らし、なくしていく以外にないのではないかと述べた。

 また、6月29日には「福島原発事故緊急会議・電力総連申入れプロジェクト」による電力総連と東電労組への申し入れ行動も行われた。(詳細次号)。


6・11たまウォークイン国立


 たまウォークの方は一橋大南門前に集合、レゲエシンガーのリクルマイさんの「サマータイムブルース」(キヨシローの反原発ソング)で始まった。この歌を皮切りに駅南側の国立市内を1時間ほどかけて歩くデモをにぎやかにやりきった。それぞれがさまざまなプラカード、横断幕、仮装や歌や音楽の演奏・・・。統一したシュプレヒコールはない。それぞれの個性で脱原発を訴える。出発から最後まで頑張るリクルマイさんの他、小学生参加の鼓笛隊にエイサー隊もありとともかくにぎやかだった。

 解散地の一橋大構内では「震災と原発事故 ティーチイン@一橋」も行われた。こちらにも300名が参加し、ドイツの原発反対運動の報告や、福島出身の院生からの発言があるなど、多彩な内容のレポが続いた。一橋大構内の放射線量調査の報告もあり、身近な地域で汚染が進行していることがよくわかった。

 この日は新宿や芝公園でも大きな行動があり、国立の行動後に新宿に向かった人々も多数いた。

 この日の行動の特徴はデモ初参加が多かったことだろう。さらに言えば参加者に女性が非常に多かった点だ。この行動をドイツやイタリアのように国の政策を変えさせる方向にまで大きくできるかどうか?基地問題とのリンクも含め考えるべき課題は多い。基地と原発の問題は似ている側面が多いが、この間の運動でうまく結びついているとは言えないのが現状だ。反基地団体としては考えたいポイントだ。



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